【ヘンコとガンコ】覚醒Projectでは、中国を「支那」と呼んでいます。現代の日本では、中華人民共和国のことを「中国」と呼ぶのが一般的になっていますが、実は、この呼び方は世界標準ではなく、戦後に中華人民共和国側からそう呼ぶように押し付けられた呼称になります。
ここでは、「支那」の呼称について詳しく解説されている以下のサイトを中心に補足・要点をまとめて、中国を「支那」と呼ぶべき理由について述べていきます。
シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由
日本人が支那を「中国」と呼び始めたのは戦後
元々日本には山陽・山陰を合わせた地域を「中国」と呼ぶ1100年以上の歴史があり、平安時代初期(878年)の「類聚三代格」という官符(公文書)に記載されています。
日本人が支那を「中国」と呼び始めたのは戦後であり、1946年に外務省が出した通達が始まりです。当時の外務省はGHQの管理下で、主要なマスコミに対して「支那」の使用をやめるよう以下のように通達しました。
※中華民国の建国は1912年、中華人民共和国の建国は1949年です。
中華民國の國名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通行はれて居たのであるが其の後之を改められ中國等の語が使はれてゐる處支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふものであり,現に終戰後同國代表者が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があつたので、今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。要するに支那の文字を使はなければよいのですから用辭例としては
(昭和21年6月7日付「中華民国の呼称に関する件」)
中華民國、中國、民國。
中華民國人、中國人、民國人、華人。
日華、米華、中蘇、英華
などのいづれを用ひるも差支なく唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は必しも右に據り得ない例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます。
上記に「今後は理屈を拔きにして」とあり、中華民国は日本に対して、きちんとした理由がないのにいきなり「支那」ではなく「中国」と呼べと命令してきたのです。元々支那人と呼ばれていたのに、いきなり差別用語だと騒ぎ始めたのも長い歴史の中では割と最近の話です。
すべてのメディアにおいて「支那」から「中国」へと言葉が書き換えられ、歴史全体においても戦争や文明の名称が「中国」に書き換えられ、現代の日本人は「中国」と呼ぶことが一般的になってしまいました。日本古来の由緒正しい地名が忘れ去られて、日本人は無理やり押し付けられた世界標準ではない呼称を使っているのです。
支那(シナ)は世界の共通語
「支那は戦前、日本人が使っていた差別用語だ」と主張する人がいますが、歴史的にみても差別用語ではなく、外国人一般の呼称であり、むしろそれが世界標準です。
1999年の東京都知事選の演説で石原慎太郎氏が中国を「支那」と呼んで問題視されましたが、石原氏は「孫文も支那と言っているのに、なぜ日本人が言うと差別になるのか」と反論しました。
平成24年6月11日の衆議院決算行政監視委員会でも石原氏は「支那を中国と呼びかえる必要がどこにある」と発言しています。
広辞苑で「支那」を調べると、以下のように書かれています。
支那(しな)
広辞苑
(「秦(しん)」の転訛)外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。
日本人は元々、支那を「唐(から)」「唐土(もろこし)」と呼んでいて、「支那(シナ)」と呼び始めたのは外国人の影響であり、日本人も真似をして使うようになりました。下表は、世界各国の支那(シナ)の呼び方をまとめたものです。韓国・朝鮮語とベトナム語は「中国」に基づく呼び方をしていますが、それ以外の国々は「支那(シナ)」に基づく呼び方をしています。
下表でもわかるように、世界の共通語は「支那(シナ)」なのです。
▼世界各国の支那(シナ)の呼び方
「China を『中国』と呼ぶ重大な過ち」中嶋嶺雄(WiLL 2006年9月号)
日本に「中国」と呼ばせる理由
中華人民共和国が日本に「支那」ではなく「中国」と呼ばせるのには理由があります。
支那人(漢民族)の中華思想では、「中国」は「世界の中心の国」という意味があり、その四方に野蛮な異民族がいる、というものです。四方の異民族には四夷(しい)という侮辱した呼び名(蔑称)があり、それらは東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・北狄(ほくてき)と呼ばれ、さげすんだ意味合いが込められています。この時代、中国の皇帝は天命により天下を治める者として「天子」とも呼ばれました。中国の皇帝に対して四方の国々の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという朝貢が行われていました。皇帝は自国を「中国」と尊称で呼び、忠実な臣下である朝鮮など臣下の国にも「中国」と呼ばせました。「中国」と呼ぶ国は「中国の臣下の国」ということであり、親分と子分の関係と同じです。
ところが、飛鳥時代の7世紀始めに自分たちの国を治める長に対して、中国の皇帝に対するものと同じ「天子」という称号を用いる国が現れました。それは倭国(日本)です。607年、推古天皇の下で摂政を務めていた聖徳太子は、小野妹子に朝廷からの国書を持たせて遣隋使として派遣しました。小野妹子は、当時の中国の皇帝である隋の煬帝に謁見し、国書を渡しました。
以下は国書の一節です。
日出づる処の天子が日没する処の天子に手紙を送る(日出處天子致書日沒處天子)
前者は「隋書」東夷伝倭国条、後者は「日本書紀」
東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます(東天皇敬白西皇帝)
倭国(日本)の国主が天子や皇帝という特権的な称号を勝手に名乗ったとして、隋の煬帝は無礼だと激怒しました。中国にとっては、倭国(日本)も属国のような存在で辺境の小国にすぎなかったのです。上記の国書によると、倭国(日本)はもう一つの「中国」ということになり、これは「中国は世界の中心の国」とする中華思想を否定するものです。
こういった歴史背景もあり、戦後私たち日本人は支那のことを「中国」と呼ぶことを巧妙に押し付けられました。つまり、現代においてもなお、支那は自国が世界の中心の国と言いたいがために、韓国や朝鮮と同様に子分扱いしたいがために、日本での呼称を中国にしろと言ってきたのです。
支那の独立と他民族への支配
朝鮮半島の支配権をめぐって起こった日清戦争(1894-1895年)では、日本は清に勝利して李氏朝鮮の独立を清に認めさせ、台湾・澎湖諸島・遼東半島を割譲させました。
また、1904年の日露戦争でも日本はロシアに勝利して、ロシアに占領されていた満洲は清の元に取り戻されました。日本は満洲のインフラ・治安など基盤を整えて産業も発展させ、大量の支那人(漢族)が満洲に移住してきました。
清朝は満州人が支那人(漢族)を支配する王朝でしたが、支那人(漢族)の民族独立運動が起こりました。辛亥革命(1911-1912年)では、清は打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、支那人(漢族)による共和制国家の中華民国が建国(1912年)されました。
ところが、建国の際に民族統一を目指すための理念として「五族共和」が掲げられ、清の支配領域全体、すなわち、支那人(漢族)の領土のみならず、満洲・モンゴル・ウイグル・チベットの各民族の領土すべてを引き継ぐと宣言しました。他民族はそれをよしとせず、自国は独立国家であると主張しましたが、支那人(漢族)は他民族を支配する方向に進んでいきます。
現在でも世界中から問題視されているように、その後も支那人(漢族)は、モンゴル人(一部は独立)・ウイグル人・チベット人に対して侵略・抑圧・虐殺を繰り返し、それらの地域に大量の支那人を流入し、無理やり同化政策を推し進めています。日本人が支那を「中国」と呼ぶことは、「中国が世界の中心の国」という他国を侮辱する中華思想を肯定し、現在も行われている支那人(漢族)の他民族への支配や虐殺を正当化することにつながります。
こういったことが、中国を「支那」と呼ぶべき理由です。
そして、正しい歴史を知った以上は周囲の人たちにも知らせて、中国を「支那」と呼ぶ日本人を増やしていきましょう!
▼清の時代の民族分布(「『日本と中国』歴史の真実」拳骨拓史著 より引用)
清の支配領域全体を表したもので、支那人とは「漢族」と書かれた領域の民族を指します。
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